社会人見習い時代

専門学校を中退し、行き場を失った人生。


当時は就職という選択肢は全く考えておらず、
「さて、どうしよう」といった状態。

親には中退の事実が告げられず、「どう理由を付ければ
両親を納得させられるか」、が毎日にテーマとなった。
期限は春休み中。

早速「アルバイトニュース」を購入し活路を探る。
(当時はこれくらいしか情報取得の手段を持っていなかった)

そして発見する。
「農業給費体験」的な表現だったと思う。
いわゆる給金をもらって住み込みで農業を体験するというもの。
言ってみれば「期間従業員」だ。
しかも農家にとってはコストがかからない都合のいい仕組み。
世はバブルに向かって突き進んでいる時代で売り手市場。
農家も繁忙期だけでも人手が欲しい時。

酪農体験 「これだ」と思って早速先方に電話。
受け入れを快諾してくれたものの、
当時未成年だったため親の承諾が必要とのこと。

ある晩、意を決して両親に説明。
「専門学校を1年休んで北海道へ行ってくる。」
もちろん旧学は嘘だ。

「父親からは、酪農を覚えてどうするつもりだ」、
「将来何がやりたいんだ」と。あたりまえだわね。

悶着の末、ふいに母から「ちゃんと学校へ行っているの?」
と言われ、観念。

学校を辞めたこと、受け入れ先にすでに話を
してしまっていることを伝え、今現在ほかに手段もなく
両親も不安ながら諦め、しぶしぶ承諾。



団体職員となる

北海道行きを前にして、母親から依頼が。
「一度、センター受講をしてきなさい」

「センター受講」とは、
岐阜県瑞浪市にある「瑞浪生涯学習センター」のことだ。
当時は「一般社団法人 モラロジー研究所」 
「瑞浪社会教育センター」と呼んでいた。
学生編でお伝えした「麗澤瑞浪高等学校」と母体は同じだ。

ここでは年間20回ほど5泊6日の宿泊セミナーが開催され、
人生に行き詰った人、対人関係で悩める人などが
各地から教えを請うためにやって来る。
いや、「連れてこられる」というのが正しい。

実はこのセミナーでの出会いが
人生好転への第一のターニングポイントとなる。

母親からの依頼の二つ目が、セミナーでの個人面談だ。
「どの講師でもいいから個人面談を申し込み、そこで
あなたがやってきた過去、親に言えないことも含め
全てそこで話してきなさい。」

言われるまま面談を申し込み、その時対応して下さったのが
「大島先生」。なんと、高校時代の同級生のお父さんだった。
恥ずかしかった。

とりあえず受講のいきさつをすべて話し、
今更断れば、あてにしている先方農家に迷惑がかかるからと
北海道へ行く想定で進めていることを告げると、
「迷惑がかかるというが、貴方の今の心の在り方で進めると
 きっと途中で辞めてしまいそうだ。その方が迷惑は大きくなる」と。

「目から鱗」だった。
そんな考え方をしたことがなかったから。
人生経験もなく先のことまで見えていなかった。

結局口利きをいただき
「財団法人モラロジー研究所」に研修職員として入所。
2年ぶりの瑞浪生活となった。

3年半の研修生活のスタート。
1年目は食堂課へ配属。

朝、昼、晩と学生600人と独身職員200人、合計800人分の
食事を作る。
朝3:30起床。午前1時間・午後2時間の休憩をはさみ
夕食の仕事が終わるのが19:30ころ。
特に冬はつらかった。
面白いことに、食堂外部に設置された大型の食品冷蔵庫、
冬に入ると暖かかった。
当然だ、真冬の明け方は氷点下10℃。冷蔵庫は3~5℃。

1年間の食堂課生活から2年目はセミナーを受講した
センターへ異動。正職員の異動が予定され欠員が出るためだ。
この配属が今の人生に大きく役立っている。

センターでの業務は、
主に開催されるセミナーの前準備や受講者のお世話。
宿泊制なので、当然宿舎の準備や入浴の準備なども含まれる。
食事は食堂を利用するものの、セッティングや片付けも手伝う。
宿直もあった。

この中で大きかったのが、セミナー初日に行うレクレーション。
レクリーダーとして受講者の心をほぐすのが大きな目的。
受講される方々は、悩んで苦しんで挙句にこんなところに
連れてこられて、
単身での参加が多いため、初日は皆口数も少ない。

そんな方々を90分のレクレーションで笑顔に変える。
醍醐味があった。自信へもつながった。

もう一つ、
毎年夏に開催される「生徒セミナー」
中学生対象で2泊3日のセミナー。
200人/回参加で3回。合計600人の中学生を預かる。
お堅いセミナーも聞かされるが、
明智町にある「大正村」でのウォークラリーや、
マスつかみなど楽しい企画もすべて任される。

会場準備、移動用のバスの手配、キャンプファイヤー用の
木材調達。先輩の残した資料をなぞる作業も多いが、
やっぱり新しいこともやってみたい。

高校時代の企画魂が蘇ってくる。

ところがセミナーが始まると困難にぶつかる。
自分と女子のリーダーは進行内容を把握している。
スタッフにも事前に資料は渡して説明してある。
ところが、場面場面での個々の役割分担まで細かく
決めてはいなかった。
今年入所の若いスタッフは何をやっていいのか分からない。
「空回り」
武田千佳子から言われた。
「國ちゃんたちは理解しているからいいけど、
 その時私たちは何をすればよいのか分からない」
すべきことの共有ができていなかった。「猛省」

第2回目からはセンテンスごとにミーティングをした。
次の場面では誰が何をやるのか、常に確認。
チームワークをどう作ればよいのか、実戦で学んだ。


ここ瑞浪での3年半、
レクレーションリーダーや実際に予算の伴う企画運営など、
人生に大きな影響を与えた時間であった。 


職人時代

3年半の研修生活を終え、23歳で地元に帰る。
地元で内装業をしていた親方からオファーを受け、
親方の下でクロス職人を1年半経験。

初任給7万円。
親方は個人事業主だったため、私も国保と国民年金。
記憶が曖昧だが、毎月給料から支払っていたと思ってた。
ところが、今になって1年半の年金が不明。

初めて車を買った。50万円。
7万円の給料から毎月3万円のローンの支払い。
親方は残業をしない人間だったので、17時にはきっちり
現場を引き上げる。
日の長い季節では、太陽が煌々と照っているうちに帰宅。
時間がたっぷりあったので用もないのに車を走らせていた。
ガソリン代は2~3万円/月。
車とガソリンの支払いで給料は全く残らない。

自宅暮らしで食事には困らなかったが、
ひもじいというより卑屈な人間になっていった。

平静を装っていたが、お金のかかる誘いは断り、
食事のついた集まりには参加。
ただ酒が飲めるところには喜んで参加した。


時はバブル全盛期。
「リゲイン」のCMに街が躍っていた時代。
友人は「今月も営業所でトップの成績だった」と豪語する。

「24時間働~けますか♬~♬」


「自分は何をやっているんだろう?」
「こんな片田舎の狭い世界で生涯を過ごすのか?」


時代の雰囲気に影響を受け、
職人ではなく「24時間働けるビジネスマン」に憧れる。

仕事を終えてから
「一杯どうだ?」って言ってみたくなり
”Be-ing”を買いに走った。


第一次サラーリーマン時代

25歳でトヨタホーム名古屋㈱へ入社。
住宅の知識のないまま現場監督に。
苦しい苦しい時代だった。

人波に仕事のできなかった私は、
常に上司からのターゲットになっていた。
手配が遅れる、手配を忘れる。
職人や工務店からは「國枝さんの現場は要注意」とも
言われるようになる。

現場から会社に戻ると掛ける前に課長に呼ばれる。
現場での手配ミスはすでに業者から直接課長に伝わっている。
課長のデスクの横に立たされたまま1時間以上説教。
周りの社員からも見られている。
これが毎日続いた。

ただ、チームのメンバーとは仲が良く、
休日などは一緒に出掛けたりしていた。なのでまだ我慢できた。

それでも
この上司からの重圧は何年も何年も続いた。
会社への足が遠のきがちに。
でも行かないわけにはいかない。

そんな毎日が7年目に入り、課長からのプレッシャーは
更に強くなっていった。
いろいろ責められる。

その日の帰宅中、いろいろ言葉が蘇ってくる。
次第に涙が溢れだし、声を上げ泣きながら運転した。

「世の中で役に立たない自分が、生まれてきた意味があるのか?」

朝が嫌だった。
「また朝が来た」
「仕事に行かなくちゃ。」
行きたくないけど世の中は昨日と変わらず今日もやって来る。

泣きながら帰宅した夜から2~3日後のこと、
夕方会社に戻るとまた課長に呼ばれた。
いつもはデスク横だが、今日は別室だった。
「いよいよ終わりか?」

今日も失敗を責められる。
そしてとうとう出たあの言葉。

「おまえ人間として欠陥品じゃねーのか?」

心が崩れだした。

「会社、辞めます。」
課長に伝えた。

大学受験を辞め、専門学校を辞め、研修職員を辞め、クロス屋を辞め、
もう絶対に言いたくなかった言葉だった。

またか。

でも、言った瞬間少しだけ心が楽になった気もした。

結局、その日は課長がその上司である部長に報告したところで
終了。
帰宅して眠れない一晩を過ごすとまた朝がやって来る。
現場には行く。昨日と変わらず動いているから。
どう過ごしたか記憶が定かではないが
数日後今度は部長に呼ばれた。
今度も別室だ。

いよいよこれで退職のススメかなと思いながら部屋に入る。

すると部長からはこの五十数年生きてきた中でも、
全く持って思いもよらない言葉が。

「出向してくれないか」と。

「えっ! どういうことですか?
 出向ってどこの会社へですか?」

「アイシン精機だ!」

「えっ! アイシン精機で何やるんですか?」

「アイシン精機がリフォームの事業を始めた。
 そこからトヨタホームのことが分かる人間を貸してほしいと。」
「どうだ? いやか?」

「いや、大丈夫です。行きます。」

いやもなにも、
課長の元から離れられるならばどこへでもよかった。

部長の言葉は続く
「勘違いするなよ、
 俺はお前がいらない人間だから出すんじゃないぞ。
 アイシン精機と言えば大企業だ、
 お前以外に自信をもって差し出せる人間がいないから
 お前に頼むんだ」と。


32歳でアイシン精機の新事業
リフォームのフランチャイズショップ
「アイシンリブラン」へ出向。

出口の見えなかった長いトンネルがいきなり途切れ
人生が大きく回り始める。


第二次サラリーマン時代

毎日が一変した。
出向先の課長はもともと製造業からの異動者。
現場の経験としては私の方が長い。
よって私に対してある意味一目を置いていた。
2週間前に迎えた朝とはまるで違う朝が訪れるようになった。

3か月間は課長にピッタリついて、見積作成から商談、
現場管理から引き渡し。入金まで、
自身のお客さんを持つことなくずっとついて回った。
課長にとっても安心材料だったと思う。

トヨタホームの現場と違い、行く現場行く現場すべてが違う。
初めての木造住宅、マンションなど、
構造の全く違う現場での解体作業は新鮮そのもの。
工業化製品であるトヨタホームに飽きが来ていたところなので
現場が楽しくてしょうがない。
『スポンジが水を吸うかの如く』を実体験した。

翌春、出向して半年後、
アイシンリブランは天白区野並に新店舗を開業。
私もそちらに異動し本格的にリフォーム営業を開始。

休日が水曜日から日曜日に変わったことで、
休日自体の過ごし方も変わった。
まず仕事関係の人間と遊びに行くことが無くなった。
日曜休みの旧友と会うこともあり、
その関係で妻と出会った。
出向した翌年のことだった。

仕事もプライベートも緩やかな追い風に包まれている
ように毎日が流れた。

2年の出向期間を経て、

フランチャイズ化されたアイシンリブランに加入。
「アイシンリブラン野並店」を買い取ると共に私の出向を解除。
併せて「アイシンリブラン野並店」の店長に就任。

店長就任後、時に、かなり危険な客さんに遭い、
1ケ月で5㎏以上体重が落ちたこともあったが、
その一件を除けば、おおむね順調に初めての営業職を
楽しんで、そして業績も挙げることができた。

そんな折、
かつて部下として野並店にいたスタッフから飲みの誘い。
ここで更に人生が回転することに。


第三次サラリーマン時代

誘ってきたのはかつて野並店で職人として働いていた前田君。
「一緒に伊藤課長も期待って言ってんだけどいいですか?」

伊藤課長は旧トヨタ住宅がアイシンリブラン豊田店を
運営していた際の店長。店長会議で面識はあったので
OKしたんだが、結局この飲み会の目的は「引き抜き」だった。

アイシンリブランでリフォームを始めてから
6年の月日が過ぎていた。
当時は会社に何の不満もなかったので転職する理由も無く、
すぐ回答をすることもできなかった。

ただ「声を掛けられるうちが華かな」とも考え
2年後40歳になる年に意を決して転職。
豊田市に本社のある
トヨタすまいるライフ株式会社(旧トヨタ住宅)へ
キャリアチェンジ。

豊田市が新たな活動の場となる。

仮入社の期間の半年を含め、1年半ほど営業。
その後リフォーム室室長を命ぜられるが、半年で解任。
トヨタホームリフォーム㈱へ出向となるまでの7~8年は
営業室長の補佐的なポジション。
具体的なミッションは無く、主に会議資料などのための
数字のまとめや傾向の把握、監査対応やスタッフの動きのチェックなど、
とても中途半端な立ち位置で、ただ仕事をこなすだけの毎日が続く。

この間、いろんな上司の下に就いた。

営業上がりの勢いのある上司。
周りのスタッフを巻き込んでグングン前に突き進む。
一見、営業としては「こういう勢いが必要なんだ」と
思われたが、今冷静に考えると、
「そうしていないと誰もついてこない」ことが
潜在的にそのような行動を引き起こしていたのかも
しれない。


こういうタイプとは合わなかった。
言っていること(指示されている)が理解できない。
主語がないから何を言っているのか分からない。
突然出先店舗の店長を命ぜられ、
数年は離れていた営業業務を再びやることに。
ちょっと心が病みかけた2年間。

男性の傾向として、40代前半、42歳~45歳あたりで
壁がやって来る。おおよそ本厄の年頃になる。
父が亡くなったのもこの時期。

毎月の営業会議では、この上司を気に入っていた当時の
役員からも突然叱咤されるようになる。
だんだん仕事が体内に入らなくなっていった。

心が溢れて吐き気のような感覚を覚える。

「鬱かな?」自分で感じた。

たまたま話をした同僚に
「おれだめかもしれん」と言葉に出した。

ほどなくして出先店舗から本社へ戻された。
ただそれでも上司は変わらず。

その後も半年ほどは真っ直ぐ会社へ向うことができず、
毎朝、東名高速東郷SAに立ち寄り、
片隅にある喫煙コーナーで、
もう何年も止めていたたばこを必ず2本吸ってからでないと
会社に向かうことができなかった。


翌年、上司が変わった。
そこからは楽になった。

人は周りの人間によって楽しくも苦しくもなる。
今苦しいのは「仕事が」ではなく「人が」である。
が、サラリーマンである以上組織に従わざるを得ない。

ただ、心を壊してしまうほどつかんでおきたいものは
なんだろう。
もちろん、仕事をしなければ収入が無くなる。家族がいたら
尚のこと仕事は手放せない。
この時救われたのは妻の言葉でした。

「仕事辛かったら辞めてもいいよ」
「体は治せるけど、一度壊れた心は治せないから」

このころから、
「心が壊れそうになったら、掴んでいるその手をスッと離せばいい」
なんて考えるようになった。


50歳、事業体の統合により
トヨタすまいるライフ㈱のリフォーム事業は
トヨタホームリフォーム株式会社と統合。
部署がまるごとトヨタホームリフォーム㈱へ移った。


第4次サラリーマン時代

トヨタホームリフォーム㈱
リフォーム専業の単体の企業。

出向当初は法人課の課長として法人営業を手掛ける。
二人の部下と共にトヨタG各社へ出向きリフォームのアピール。
何万人といるトヨタG従業員から
リフォームの重要を引き出すのがミッション。

法人営業とは?
社内でも勘違いしている人間が多数。
法人営業は御用聞きではない、
定期的に訪問していればリフォームの依頼が来るなんて
そんな簡単なものではない。
「この会社に依頼してみたい!」
そう思える企画を起こし伝える。いわばブランディングだ。

企画にはセンスが必要。そしてアンテナも。

人生で一番忙しかった、そして今の自分を作り上げた
数年間がここから始まった。
営業のマネージャーから企画のマネージャーへ。

法人・企画・広報・営業総括と営業以外の業務はすべて
私のところにやってきた。毎晩深夜。

その後
営業総括業務が外れ、法人営業と企画・広報を担当。
この時会社のホームページの大改修を手掛ける。
このころからWebの活用に興味が湧き始める。

53歳の時に とあるセミナーに出会う。
「これからのリフォーム店・工務店を考える勉強会」

講師は
「オラクル人・しくみ研究所」代表の 小阪 裕司 氏。
年間4クール開催されていたセミナーに3年間通う。
小阪氏が唱える言葉
「人にフォーカスする」
が体内に染み込んだ。

この先は History -風の時代- にて。(執筆中)


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