1965年8月30日生まれ
愛知県の尾張北部「江南市」にて出生。
4人姉弟の3番目、当家5代目の待望の長男として誕生。
公務員の家族だったので、決して裕福ではないが、
特に不自由もなく成長。
小学生時代
性格は引っ込み思案、人前で話すことはとても苦手。
授業中に手を挙げて発言をするなどという大それたことは
とてもとてもできないような、
おとなしく、特に強い個性も無い普通の少年でした。
模型が好き。ミニチュアが好き。
これは今でも変わらず。
作ること自体が好きでしたが、
当時は材料から作るのではなくプラモデルに夢中。
特に自動車のプラモデル。
スーパーカーが流行りだした時代。
机に向かうことは大嫌いで、
自宅での勉強はほとんどした記憶がありません。
自由が大好きで、そろばんや習字のような
学校の授業以外の習い事で拘束されることには
常に理不尽さを感じ、学習塾や部活など
その後の人生でもそれらはことごとく続かず。
中 学 時 代
体操部に入部するも、しばらくして幽霊部員となり
2年生で退部。
部活顧問からは
「そういう中途半端な心は大人になってから困るぞ」と言われた。
部活を辞めて帰宅部となっても別段勉強をするでもなく、
ただ「夕焼けニャンニャン」なるテレビ番組を楽しみに、
何もしようとしない自分に悶々としながら
自由な時間を無駄に過ごしていた。
成績も3年間でズルズル低下。
1年生最初の中間テストが学年200人中で7番だったが
3年生になる頃には英語が全く分からなくなっていた。
学年順位は150番くらいまで下がり、
勉強については憂鬱な日々が続いたが、
それでもなぜか友人は何人かいて比較的楽しく過ごした。
特に、中学3年生の時が一番楽しくて、
6人のグループで遊んでいたが、その内の一人が
後に現在の妻との仲介役になった。
中学1年生の時に目覚めたのが「鉄道」。
夜明け前に自宅のある江南市から隣町の
旧国鉄「木曽川駅」まで、カメラをぶら下げ
同級生と二人でよく自転車を走らせた。
夜明けとともに走り抜けてゆく「ブルートレイン」。
親父から借りたカメラのファインダー越しに
青く輝く車体が走り去ってゆく光景は今でも忘れない。
「富士」「はやぶさ」「あさかぜ」「さくら」
「みずほ」「出雲」「瀬戸」「いなば」「紀伊」
「銀河」
もう一つ、ブルートレインではないが「金星」
今でも鉄道模型を見ると心がワクワクしてくる。
中学3年生。
秋ごろからさすがに高校受験の勉強をした。
きっと人生で一番勉強した。
最後の期末試験では60番くらいまで順位が回復した。
当初は地元公立高校に進むつもりだったが、
なぜか岐阜県にある全寮制の高校
「麗澤瑞浪高校」のパンフレットを手にする。
どうしてそのパンフレットが手元にあったのかは
全く覚えていないが。
この高校のことは後程お話しするとして、
「寮に入れば否が応でも勉強をすることになるのでは」などと浅はかな志を持ったことは今でも記憶に新しい。
しかも、大学受験クラスである「錬成コース」を。
中学三年生2月 電報が届く。
見事「サクラサク」
高 校 時 代
高校生。
岐阜県瑞浪市にある全寮制普通高校
「麗澤瑞浪高等学校」
先に予断をお話しておくと、
この画数の多い学校名と自身の名前。
模試の際、数学なんてのは数枚の答案用紙があり、
名前を書くだけでそこそこの時間を要した。
まあ、高校時代になると数学もよくわからなく
なっていたし考えても回答は出てこなかったので、
画数による成績への影響はなかったんだが。
全寮制を甘く見ていた。
先輩たちがめちゃくちゃ怖かった。
中学出たての1年生にとって、
3年生はもはやおっさんだった。
いろいろ書ききれないが
部屋は6人部屋、各学年2人。
つまり、部屋の中に4人の先輩がいる。
毎夜22時に会食があり、部屋の広間に集まり
6人でお菓子とお茶。
準備するのは1年生。
会食は30分程度。
その間の話題づくりも1年生の仕事。
そんな毎晩しゃべるネタはない。
しらけると先輩から叱られた。
(なんだそりゃ?の世界)
時々正座の時間があった。
土曜日の夜。
寮の大部屋に呼び出され、
普段の生活の至らぬ点を恫喝される。
1年生にとってとてもとても恐ろしい時間。
当時は手も出た。
(今の寮には一切そんなことはありません)
2年生の秋、生徒会に入会。
生徒会長・副会長・書記・会計・文化委員長(男女)
・体育委員長(男女)からなる8名で構成。
私は文化委員長に。
主なミッションは、文化祭、保護者学級での出し物、
映画鑑賞会(寮生活なので外出がなかなか)など
学校行事の企画・運営である。
このころから新たな企画を生み出すことに
ワクワク感を感じていた。
ちなみに、
映画鑑賞会では生徒からアンケートを取るも、
結局個人的な思い入れで「ローマの休日」を上映。
賛否両論。
基本的に新しい映画をチョイスするのが
これまでの慣習だったから。
生徒会に入ろうとした大きな理由は、
「高校生活で学校に爪痕を残したかったから」
勉強もできない、スポーツも苦手、
なんの取り柄もない自分にふがいなさを
感じるとともに、「何かしなければ」といった
感情を日ごろから感じていた。
当時は「企画」なんて言葉も知らなかったけど、
今も企画の仕事が天性だと感じている。
文化委員長を選択したのは直感だったのかもしれない。
残した爪痕。
この学校では、「文化祭・運動会」といって、
体・文ミックスのイベントが三日半続く。
前夜祭から始まり、初日は水泳大会、
日弁・英弁大会があり、
夜にはミュージックフェスティバル。
これも合唱、民謡、歌謡の部を
「青軍」「赤軍」「白軍」「黄軍」それぞれの軍が
躍り唄う。
2日目が文化部の展示と生徒会企画。
3日目が大運動会をフィナーレの後夜祭。
8月下旬に帰省先から寮に戻り、
1週間授業無しで準備をする。
寮なので、夜も準備が続く。
いや、夜というより早朝。
10時消灯は守らねばならないので、
10時に寝た後2時起きとなる。
なぜかタイトルはあくまで「文化祭・運動会」
生徒会の資料では、過去の先輩たちが
改名を申請を挙げた形跡があったが、
なぜか却下されていた。
名前を付けたい。
その一心から企画書を書いた。
今でも理屈を述べることは好きだが、
この時から文章にすることは得意だったのかもしれない。
通った!
名前は「麗明祭」
今でも使われている。
30年前の話。
今は誰もそのことを知らないし、当時のメンバーも
覚えていまい。
残した爪痕。
もう一つ
チャリティコンサートもやった。
学校初。これも爪痕。
それまで誰もそんなこと考えなかった。
なぜかそういうことが頭に浮かぶ。
そして実行する。それは現在でも。
保護者学級期間中開催されるガーデンパーティーに
合わせて体育館で行った。
お金持ちの多い学校だったから、2時間程度の
コンサートで何十万円か集まった。
ちゃんと寄付しました。
加えて説明しておくと、
当時全寮制であった麗澤瑞浪高等学校
(今は通学生もあります)、
生徒は全国から入学していた。
なので、文化祭や保護者学級などは保護者も
二泊三日で各地から参加。
むろん宿泊費や食費は自腹。
北海道から来ていた同級生の親は、保護者学級で
20万円ほどの出費と言っていた。
そんなこんなで暮らした高校生活も
3年生の2学期で終了。
あとは卒業式に再び学校に集まるだけ。
生徒会活動では楽しかった思い出が多くあるが、
他はあまり良い思出は無い高校生活だった。
なので卒業式も参加しなかった。
受験・浪人時代
ここからは受験となる。
勉強が全く頭に入っていない状況は全く変わらず。
中学時代から勉強をしてこなかったことで、
漠然と大学を受験するも、当然5校すべて失敗に終わる。
受験料をどぶに捨てたようなもの。
一応、浪人組皆で名駅の「河合塾」へ。
経験したことの無い通勤ラッシュ。
浪人したが、やはり勉強が嫌いで7月ころから
アルバイトの日々。
毎月10万円ほど稼ぐ浪人生。
バイト代はほぼ仲間と飲んでいた。
受験シーズンを迎えるが相変わらずのバイト生活。
当然受かるはずもないので、受験料が勿体ないと感じ
結局大学受験はせず、受験の必要がないという理由で
デザイナーの専門学校へ入学。
髙いハードルをくぐる人生。
最近になって耳にした言葉
「高いハードルほどくぐり易い」
19歳「東京デザイナー学院名古屋校」
工業デザインを専攻。
しかし、これも動機が不純なため続かず。
1年で退学。
とはいえ、ここで1年間学んだことは
少なからず今も生きている。
図面の書き方、色の使い方、模型製作など。
「やはり人生に無駄はない」と断言できる。
行き場を失った人生。